パリ政治学院歴史センターにあるガブリエル・タルドのアーカイブでの調査をはじめて、ほぼ10年になろうとしている。ここにあるタルドについての草稿は、もともとはペリゴール地方のラ・ロック=ガジャクにあるタルドの暮らしていた館にあったものを譲られたそうだ。
もう四年前のことになるが、私を含むタルド研究者3名と、プルードン研究者1名、つまりは友人4人で、タルドの館と墓を見に行くべく調査旅行に出かけたことがある。ラ・ロック=ガジャクは名前の通り岩壁に張り付くようにある小さな村で、目の前をドルドーニュ川が流れ、フランスでもっとも美しい村のひとつにも選ばれている。旅行の目的地としてもちょうどよいはずだった。
この旅行はトラブル続きだった。出発当日に大雪が降り列車が動かず、何時間も待つこととなった。現地では、国際運転免許証をもつAくんに運転してもらい、サルラからラ・ロック=ガジャクまでレンタカーで向かった。着いてみると、美しいはずの村はシーズンオフのために誰一人おらず、郵便局さえ閉まっている寂しい光景がわれわれを待っていた。誰もいないので場所を聞くことができず、仕方がないのでグーグルマップを信じてタルドの墓を探して山中を車で走っても見つからず、あげくに山奥で立ち往生しみなで後ろから車を押してどうにか脱出するといった事態にも陥った。けっきょくタルドの墓は見つからなかった。
だが、どのトラブルもなぜか苦にならなかった。石川三四郎やエリゼ・ルクリュのいたドンムの坂道のやたらと強い風や素晴らしい見晴らし、サルラの小路やタルド像とともに、旅行のなかの出来事のすべてが楽しい思い出だ。
ひとつだけ残念だったのは、ミランド城に行けなかったことだ。伝説的なダンサーであり歌手でもあるジョセフィン・ベイカーが買い取り、世界の孤児を養子にとり「虹の部族」として育てていた古城だ。さほど遠くないところにあったのだが、当時はこのことを知らず、訪れることができなかった(ジョセフィン・ベイカーについては、荒このみさんの著作『歌姫あるいは闘士 ジョセフィン・ベイカー』や、おそらくは彼女をモデルとしているダンサーが出てくる、映画『愛と悲しみのボレロ』を見てほしい)。日本人女性と進駐軍兵士とのあいだに生まれた孤児もふたり、ミランド城に暮らしていたはずである。
もし、もう一度タルドの墓をみつけにいくときには、女性差別的・人種差別的な男たちの眼差しに晒されながら、ときには翻弄し、抗いつづけた彼女の残した未来の跡をぜひみてみたいと思っている。