これまで主に教育の領域で日仏の様々な断面に触れる経験をしてきた中で、今さらながら東京とパリの比較に取り憑かれるようになった。中央集権の近代国民国家を形成した両国において、東京(帝国)大学とパリ(ソルボンヌ)大学を中心に、高等教育がどのように拡張を遂げていったのかという問いである。都心部から郊外への拡張、古典学問から職業専門教育への転換、身分・階級を超えた人材養成、国家の都市計画と民衆の人口集中など、多角的な観点から比較の興味が湧いてくる。そこにはソルボンヌで社会学と教育学を講義したデュルケムも関わってくる。
私自身は、大阪府八尾市の出身で新潟県上越市に就職で移動しただけなので、東京・パリともに完全アウェーである。大学生の時、大垣発の夜行列車でよく眠れないまま東京に着き、方角もわからず少し歩いて桔梗門の掘の上に寝てしまったところ、皇宮警察が来て注意されたのが東京初体験である。フランスに初めて旅行した時には、カルチエ・ラタンに日本人が結構いて呼びかけられ、同宿させてもらった記憶がある。
これまでどれだけの人が東京とパリの比較を試みたか、その広大な背中に乗せてもらいながら、ささやかに資料を読み解きつつ自分なりの「発見」に目を奪われている。最近は、鹿島茂氏がパリ市街の古層と神田神保町書肆街の歴史を掘り起こしているのに触発されて、カルチエ・ラタンと湯島・神田・本郷の「学問中心地」の形成過程を調べてみた。当初はセーヌ川と隅田川・神田川の「川」を基準に眺めていたが、パリと東京の「山」に着目することで見方が大きく変わった。アベラールが名声を博したサント・ジュヌヴィエーヴ山と、本郷台と駿河台をつなぐ神田山である。
神田川は、徳川入国後に山を南北に分かつ形で開削され、その北岸に湯島聖堂が創建された。明治維新後は近代学問の発展に伴って湯島から神田一ツ橋、本郷へと「学問中心地」が移動し、戦後は本郷区と小石川区が合併して「文京区」になった。パリでも1968年以降に大学の新設・分割が進んだが、それまで何世紀にもわたり大改造が行われ、運河も掘られたにかかわらず、カルチエ・ラタンがセーヌ左岸に閉じ込められたのとは対照的である。J.ベン=デヴィッドは、国際的な「学問中心地」のアカデミック・ドリフトを論じたが、日仏両国においても東京とパリの「山」を舞台に、それが繰り広げられた象徴闘争の軌跡をたどってみたい。