コラム

No.46 トルコにおけるデュルケームの翻訳

 デュルケームの諸著作の翻訳に関して、日本は世界でも指折りの刊行点数を誇っているが、トルコもまたデュルケームの「翻訳大国」であることは、あまり知られていない。

 彼の生前に出版された主要4著作はもとより、『道徳教育論』や『社会学と哲学』といったより各論的な業績の多くも、今日トルコ語で読むことができる。 

 特筆すべきは、翻訳(初版)の刊行年の早さである。個別論文の翻訳はすでにデュルケーム存命中から行われていたが、著書も逸早くトルコ語に移されている。その一部を、日本の場合 (カッコ内の年次) と比べてみると、

1923 :『社会分業論』(1932) 
1924 :『宗教生活の原初形態』(1930-32) 
1927 :『自殺論』[=ただし、雑誌に分載された内容要約] (1932) 
1927 :『道徳教育論』(1964) 
1928 :『教育と社会学』(1934) 
1943 :『社会学的方法の規準』(1942)

 という具合に、多くの訳業が何と1920年代になされており、少なくとも刊行年次については、日本に大いに先んじている。こうした状況には、デュルケーム社会学が社会再建の処方箋として、当時のトルコの知的世界一般を風靡していたという事情が大きく与っている。 

 翻訳に際しては、訳語の選定が大きな問題となるが、初期の翻訳において、たとえば“sociologie”には“içtimaiyat[原義は集まりの学]”、“fonction”には“hizmet[貢献]”、“conscience collective”には“maşerî vicdan[集団的な‐良心]”“socialisation”には“içtimâîleşme[社会的にする]”、等の語句をあてるなど、工夫の跡がみてとれる。もちろん、個々の術語については定訳が確立していたわけではなく、訳語の不統一の問題は、当時から論議を呼んでいた (cf. Mehmet İzzet, 1924)。言語の純化運動や、アタテュルクの西洋化政策の影響もあり、多くの訳語は二転三転している。たとえば「社会学」の名称さえ、のちに現代トルコ語の“toplumbilim”ないし原語に舞い戻った“sosyoloji”へと変化した。とはいえ、母国語の語彙をあてる方針は基本的に維持されている。

 日本は西洋の学術・文化を母国語への翻訳を介して摂取しえた、世界でもまれな国であるとよく言われる。しかし、舶来の新知識を同様なやり方で根づかせようとしたトルコの努力そして心意気も―― デュルケームの翻訳という葦の髄から覗いて観た限りでの感想ではあるが―― 決して過小に評価されてはならないように思われるのである。