広島市中心部の平和大通りを東に進み鶴見橋を渡って京橋川を越えると、標高70mほどの比治山にたどり着く。その一帯は比治山公園として整備されていて、広島市では平和公園、黄金山と並ぶ桜の名所として知られる。山の南端には旧陸軍の墓地があり、春には花が豪奢に咲き誇るのが容易に想像できる立派な桜の樹々で囲まれている。
そこには第二次世界大戦までに亡くなった兵士たちの墓標がところせましと並んでいるのだが、それを抜けた先にはフランス兵の立派な墓石が突然目に入る。どうしてフランス兵士の墓が広島の陸軍墓地にあるのだろうか?広島大学と交流協定を取り交わしているブルゴーニュ大学のヴェロニク・パリゾ先生が広島にいらしたおりに、何か心当たりでもとお連れしたところ、先生も思いがけないものを見たというご様子だった。そしてフランスに帰国後、資料にあたって調べていただいたのが、次のようなことであった。
1900年6月、義和団の乱が勃発した北京では、西洋列強や日本の外国公使たちが公使館に籠城を余儀なくされ、各国の軍隊へ救援を要請した。イギリス、ドイツ、ロシア、フランス、アメリカ、日本、イタリア、オーストリア=ハンガリーが二度にわたって連合軍を派遣し、8月14日にようやく北京に到達する。その際、義和団や清朝軍との戦闘で負傷したフランス兵士約400名が治療のため広島に搬送されたのだが、そのうち6名が故国フランスの地を踏むことなく広島で亡くなったという。
二度の世界大戦を経験する20世紀は次の年に始まる。日本も含め各国はそれぞれ別の思惑を胸に秘めて協力し合ったであろう。比治山の陸軍墓地にフランス兵士の墓があるのは、戦争の世紀へと世界が突き進んでいった過程の痕跡とも言える。