コラム

No.50 「権威体」について

 定年も間近になり、自分なりの社会学、大げさなら社会理解をまとめているが、その過程で「権威体」という概念を作ってみた。ヒントはカール・ポラニーや柄谷行人の互酬・交換・再分配という分類である。「権威体」はこのうちの再分配を担う集合体だ。しかし、権威体は国家に限らない、あるいは再分配は国家に限らないと考えている。権威体は歴史貫通的な実態として人類とともにあったと見ている。

 つまり、群居動物としての人類は常にムレ・ムラ・クニ等を頼りに暮らし、それらを創発的に対象化して命名し、権威として受け入れ、個体の欲求と折り合いをつけながら生きてきた。歴史の過程で当初権威体だった親族共同体は定住とともに地域共同体にその地位を譲り、近代以降は市場と一体となった主権国家が共同体から再分配機能を奪い取った。

 さらに、権威体の再分配機能は物質的な側面に限らないと考える。再分配を柄谷は「略取」と「再分配」からなると言うが、これは精神的–道徳的な側面でも言える。精神的な略取が狭義の「道徳」であり再分配が「正義」である。権威体は個々人に道徳を課しつつ他方で正義を実現する。これらの略取と再分配を「与奪機能」と、これまた勝手に命名した。

 こうして人類はどの時代にも、どれかの集合体を権威体とし、その「与奪機能」に物質的・精神的な期待を寄せてきたが、こんにち近代国家という権威体はその機能を果たせなくなりつつあり、取って代わるものもない。その原因はグローバル化であり、機能不全へのヒステリックな反応が右傾化であろう。もう字数を超えた。 

 今後、デュルケムの道徳やフーコーの生政治などとのすり合わせ等も考えていきたい。