コラム

No.51 「独立」の機能的等価物としての「対立」

 クラ交易の取引開始の際の儀礼。古代ゲルマン法での担保物引渡しの儀礼。マルセル・モース『贈与論』(1923~24年)において、未開人・古代人は、贈る側は贈物を投げつけるようにして与え、それを受け取る相手方も取るに足らない物であるかのように扱う点が指摘されている。このような儀礼を経て取引に入るのはなぜか。

『贈与論』に直接の回答はないが、ここから透けて見えるのは、相手の風下に立たされぬように常に気を張っていなければならない状況である。贈物をぞんざいな仕方で与える、受け取る。序列関係が形成される契機が常に潜在しているからこそ、このような誇張した態度を取って、これが恭順ではないことを示そうとする。自らの威容を誇示することで、均衡状態を保とうとする。そうすることで闘争を回避し独立を保持する――それ以外のやり方を知らなかった――のである。

 当然のことながら、このような誇張した態度を取らなければならない――でなければ独立が脅かされかねない――のは安全保障を担う超越的権力が存在しないからである。「未開社会」を抽象の水準を上げて規定し直すと、それは“安全保障の担い手の不在”“安全保障が当事者に委ねられている状況”である――このことは既にマーシャル・サーリンズが指摘している。その意味では、第三者権力不在という状況下においては、「対立」が「独立」の機能的等価物と言える。

 このように抽象度を上げて考えれば、「スラム」「下層」「非行仲間集団」において威嚇的な文化が醸成される事情がよくわかろう。いや、もう少し言えば、これらはある特定の階層の“文化”というよりも、特定の状況に規定された“適応様式”でしかない。というのも「スラム」「下層」「非行仲間集団関係」とは、規範的拘束力・権力の影響力の最も弱い状況、裏側から言えば、その分その庇護(安全保障の恩恵)が最も受けられない状況であるからだ。 

 こうも過剰(=喧嘩腰)な形で自律性を示そうとするのは極北としても、対立することで独立を保持するという構造それ自体は、実は、われわれの行う対人コミュニケーションの基底的な要件として存在している。このことを指摘したのはアルビン・グールドナーである。確かに、このような物言いこそしていないが、タルコット・パーソンズの「貢献‐報酬連関」図式の妥当性を「限界効用逓減」という観点から論難する形で――この図式では社会秩序の持続性が説明できないとして――事実上そのような主張を展開している。 

 「私が仮定するのは、自我の同調行為の連続が、破れることなく続けば続くほど、他我は、自我の以後の行為を当然のこととして受けとることが多くなり、それらが注目されることが少なくなるということである。」(『社会学の再生を求めて 2』新曜社、1975[1970]年、矢沢修次郎・矢沢澄子訳、p.94) 

 相手の要求に応えれば応えた分だけ、相手はそれに慣れてゆき、段々と要求水準は上がってくる(あつかましくなってくる)。だから、こちらはその都度に貢献をつり上げていかなければならなくなる。その一方で、相手側も、その時は期待が充足されたとしても、それ以上に要求が肥大化していっているので、結局は、不平たらたらの状態(アノミーの常態化)に陥るのである。 

 確か、内籐朝雄は、いじめ関係において、被害者意識を抱いているのはむしろ加害者の方である(少しでも自分の言う通りにしないと本当に被害感情を抱く)ことを指摘する一方で、中井久夫は、日々暴力にさらされていると、加害者が少しでも攻撃の手を緩めれば、本当に彼に対して感謝してしまうことがあることを指摘する。

 与える側の負担と受け取る側の不平不満の肥大化。グールドナーがこの悪循環のループに歯止めをかける実践として呈示したのが「期待の撹乱」である。相手の要求に応えてばかりだと相手はどんどんつけ上がってくるので、タイミングを見計らっていったんは相手の期待に応えるのをやめなければならない。そこでいったんリセットをしなければならない、と。