コラム

No.22 民主主義と思いやり

 先だって開催されたISA Vienna Forumで報告してみた。テーマは「なぜ日本では民主主義がうまくいかないのか」。こういうことを論じるならそれ相応の準備をしてからの方がいいに決まっているが、RC25(Language and Society)のDiscourse in Practice: Microsociology of Social Exclusion and Controlというセッションにエントリーして採用してもらえたので、あまり考えなしに話してみることにした。

 報告の要点を乱暴にまとめてしまうと「『思いやり』を強調しているうちは民主主義は定着しない」となる。他者を思いやること自体は多くの文化圏にも共通の美徳と言ってよさそうに思うが、その思いやりが民主主義を阻害するというのはどういうことか。「思いやり」を二種類に分けてみることで説明をつけようとしてみた。ひとつは「求められたらそれに応じる思いやり」、もうひとつは「求められる前に求めに応じる思いやり」である。

 この二種類のうち後者を日本社会に特徴的なものとした。「思いやり」の強調が昂じると「求められたら負け」つまり「求めが言語化されたら負け」という事態が生じる。思いやりを持つと自負する人は、相手から求めがある前に、相手の求めているものを察してそれを提供できなければならない。「言われるまでわからない」のは思いやりを欠いていると言われても仕方ない状態なのだ。これは翻って「思いやられる側」をも拘束する。何か「思いやり」を言語化するということは、その相手に対して、オマエは「言われるまでわからない」=「あるべき思いやりを欠いた」人間だと宣告するに等しいのだ。

  社会の成員がそれぞれの都合を出し合い、それらの間で妥協点を見つけるのが民主主義だとするのなら、そもそも自分の都合を表明すること自体が他の成員への攻撃となるような社会に民主主義は機能し得ない。かなり乱暴な議論になったのは否めないが、それでもそこそこの反応があったのだから、他者への配慮というのは案外やっかいな問題として残りつづけているのかも知れない。