1990年代以降、人文・社会科学の研究に於いて、「社会現象・社会問題を分析する際、最早、社会的カテゴリーや社会集団に注目しても無益であり、各人の固有の事情や特性に着目しなければならない」というような主張が多くの支持者を集めるようになった。そういう主張が広範囲に支持される理由の第一は、生物学(脳科学や遺伝学)が飛躍的に進歩したからだ。遺伝子やホルモン分泌の研究が、今や倫理学の最先端研究である。「階級的背景が人々の能力に影響するのでなく、各人の生得的な知能が社会的地位の配分に影響する」という説(1994年刊の『The Bell Curve』)が、1960年代の「社会生物学論争」の場合と違って、一部の有力な研究者の間で今なお唱えられている。その理由の第二は、「第二の近代」(概ね高度経済成長期以降の先進諸国)では社会的カテゴリーが人々を包摂し切れず無力化した、という説が説得力を持つようになったからだ。U.ベックに拠れば、社会保障制度が各人を制度的に個別に扱い一定の生活水準を各人に保障する時代には、社会的経済的不平等は温存されているものの、各人は個別に思考し行動し、社会的カテゴリー(例えば階級)に包摂されない(この考えを敷衍して「階級の死」を宣告する研究者も、現れた)。P.ロザンヴァロンに拠れば、現代の社会問題(例えば貧困問題)は、集団やカテゴリーの利害を示す問題でなく、各人の人生の中で様々な差異の複合状況として出現する。
これらの説に妥当性が無い訳ではない。但し、斯様な説が猖獗を極める状況は、社会問題を自己責任の問題に帰す背景を、成す。人間の道徳意識を生物学で説明する優秀な自然科学者は多数存在するが、彼らの大部分は、脳の仕組みと遺伝子とだけで道徳意識を説明し尽くせるとは決して言わない。確かに、現代の貧困問題は往年のそれと同じでないが、貧困状態へと下降移動し易い層とし難い層とは今も厳然と存在し、両者の違いは、例えば雇用制度に因るのであり、その制度は四十年前よりも「柔軟な」ものになっていて、高い学歴資格を有す人々から成る層の方がその制度を巧みに活用できる。
生得的要因や各人の個人的事情だけで社会問題を説明し尽くせる訳でない以上、社会科学者なら、集団が各人へ及ぼす深甚な影響とか制度の効力とかを強調してこれを説明すべきだろう。社会科学は、「個人の認識や行動」と「社会集団や社会的カテゴリーの特性」との照応関係を説明する概念を、彫琢して来た(「集合表象」、「集団心性」から、「階級のハビトゥス」に至るまで)。それらの概念によって、社会現象を産み出す構造が明らかになり、社会の病因が特定される。社会科学者は、心性やハビトゥスが個人毎に異なると言うような理論的退行に堕すこと無く、個人的行動と社会的カテゴリーの特性との照応が全体社会を稼働させるメカニズムを分析し、社会構造の修繕箇所を指摘しなければならない。