それまで腑に落ちてこなかった議論が、ある経験を経たあと急に身に染みて分かるようになることがある。私にとってポール・リクールの翻訳論はその一つである。
リクールは「翻訳という範型」と題された論考の中で、次の二つの立場を斥けている。一つは、翻訳がつねに行われてきたという事実を起点として、翻訳を可能にする絶対言語を探求する立場。もう一つは、言語の多様性という事実から出発して、翻訳の不可能性を主張する立場である。リクールによれば、絶対言語に基づく完璧な翻訳を夢見る前者の立場は、言語間の乗り越え困難な差異を無視する傾向にある。他方、後者の相対主義的な立場は、言語間の異質性にもかかわらず通訳や翻訳者がいるという事実を軽視している。
「翻訳可能対翻訳不可能」という二者択一に代えて、リクールは「忠実さ対裏切り」を提示する。そのねらいは、翻訳を次のような作業として捉え直すことにある。すなわち、よい翻訳の絶対的基準は存在しないという点を認めながらも、絶え間ない再翻訳過程を通じて、読者を著者のもとに、著者を読者のもとに連れて行く作業である。裏切りを冒すリスクを背負ってでも、著者と読者という二人の主人に仕え、歓待しようとするこの種の実践を、リクールは「言葉のもてなし」と呼んでいる。
この十月に私はリュック・ボルタンスキー著『胎児の条件』の翻訳を終えた。四年強に渡る訳業を経験した今だからこそ、「もてなし」という倫理的語彙で翻訳を表現したリクールの議論が痛いほどよく分かる。実際、振り返ってみると、私の四年間は次のような問いに支配されていたように思える。「私は二人の主人をもてなすことができるのだろうか」。