コラム

No.71「フランスのイスラム」研究をめぐる2015年以降の動向

フランス社会を大きく揺さぶった2015年の一連のテロ事件から、早くも4年が経った。以降、フランス社会は「テロとの闘い」へと大きく舵を切ったわけだが、その余波は今や社会生活のみならず、「フランスのイスラム」を多角的に理解しようと努める社会科学研究分野にも押し寄せ始めた。

この認識を鮮明に持つようになったのは、今年イスラム研究の研究資金に関する会合に参加したことによってだった。これは、2015年以降公的・民間でのイスラム研究への資金提供の機会が増加していることを受けて企画されたもので、研究者らの証言をもとに、今日のイスラム研究における研究の科学的中立性と政治・社会との関係について考えるというものだ。

実際2016年以降、内務省・中央宗教局(Bureau central des cultes)が研究プロジェクトの公募(毎年)を開始したことに始まり、フランスにおける「イスラム学」の発展を目的とした研究財団「フランスのイスラム財団(Fondation de l’islam de France)」が設立され(2016年12月)、毎年修士・博士課程学生との研究契約を行なっている。また2018年には、欧州委員会に採択された大型プロジェクトが始動したばかりだ。このように、社会科学分野だけでなく、経典解釈に関する「イスラム学」にも力を入れていることは、フランス社会でのイスラム理解が促進されるとともに、研究者にとってもより幅広い研究活動を行うことができるようになる。この研究分野はどうしても腫れ物に触れるように扱われていることを考えると、それ自体は評価できるだろう。

しかし一方で、その弊害もある。それこそがまさにこの会合にて喚起された、自律的なイスラム研究に対するリスクだ。というのも、ポスト・テロ社会においては、資金提供機関からの可視的・非可視的な圧力が研究者にかかる。こうした社会の安全に直結する過激化やイスラム・ネットワークに関する研究が支持を得るようになる一方で、いわば「じゃない方の」イスラム研究、つまり新たなイスラム・ムスリム像を模索する研究が現在軽視される傾向にある。しかし、今日ますます厳しくなる研究環境の中、研究者たちは(資金を提供する)制度、科学的客観性、そして社会への寄与という倫理的問題の狭間で、難しい舵取りを迫られている。

このように、「フランスのイスラム」研究の地盤変化の只中にあって、私たち研究者はどのように研究を続けるべきなのだろうか。この会合でも熱い議論が交わされた。ところで、イスラム研究と言えば、かつてヴァルス元首相が2016年、フランスの社会学がフランスのイスラム・ムスリムについて長年蓄積を重ねてきたにも関わらず、「テロとの闘い」に有用な対処を提示できない事を受け、社会学を「言い訳の文化(culture de l’excuse)」であると非難したことも記憶に新しい。

しかしながら、私がフランスで学んだ社会学は、そうした状況を前にしても毅然と自らの仕事をし続けることを示してくれた。ヨーロッパそしてトルコを代表する社会学者であるニルフェール・ギョレ(Nilüfer Göle)は、フランスのイスラムをめぐる地殻変動のただ中にあって、常々「社会学は(観察する現象に)意味を与える学問である」という言葉を繰り返していた。(ちなみに彼女自身、上記の批判に他の社会学者らと共にLibération上で応答、この発言を批判したとともに「イスラム研究が新たな水域に入った」と語っている。)

まさにこのような時だからこそ、社会学者としての冷静な観察眼と判断が求められる。日々私たちが紡ぎ出す新しい社会学的解釈=「意味」は、視野が閉塞的になりがちなこうした背景下でこそ、新たな想像力を養うことに寄与することができるだろう。さらに言えば、直接的利害関係にない私たちのような「外国人」研究者だからこそ、より中立的な観察に基づいた新たな「意味」、可能性を示すこともまた可能かもしれない。

フランス政治・社会がそうした「じゃない」イスラム研究にも目を向けることができるかどうか、そして広く研究者の警鐘に耳を傾けられるかどうかは、明日のフランス社会が真に「テロを生まない社会」となれるかどうかの試金石の一つと言えるかもしれない。